道元禅師は24歳の春、ついに明全和尚と共に宋(中国)へ旅立たれました。当時は船も粗末なもので、大きな嵐にあたってしまったら命の補償もないという危険な旅でした。
船はなんとか無事に4月はじめに現在の浙江省の港に到着しました。禅師は到着後も上陸許可の問題から、しばらく船中にとどまって中国語の勉強をしていた とされますが、その時阿育王山広利寺(あいくおうざんこうりじ)の老いた典座和尚(てんぞおしょう・禅寺で料理の責任者を務める僧侶のこと)が船に日本産 の桑の実を買いにやってきました。
道元禅師は老典座にお茶をすすめ、しばらく会話をしました。
老典座が言うには、「明日は特別な説法がある日なので、修行僧達に特別な料理を作ろうと思って、材料にする桑の実を買いに来た」ということです。阿育王山は港から20キロ程離れているお寺です。
道元禅師は「ここであなたと会えたのも何かのご縁ですから、今日は私があなたに食事をごちそうしたいと思います。どうぞ今日は船中に泊まっていってください。」と申し出ましたが、
老いた典座は「それはダメです。明日の食事は私自信が作らなくてはいけません。」と答えました。
道元禅師は、「あなたでなくても食事を作ることができる人は他にもいるでしょう。」と返すと、
老いた典座は「私はこのように老いてから典座の任務を拝命したが、これこそ老人にもできる仏道の修行なのです。どうしてこの大事な修行を他人に譲ることができますか。」とかたくなに辞退します。
道元禅師が「あなた程の老僧が、なぜ食事係などという面倒な下働きをされるのですか。それよりも坐禅をしたり、書物を読んだりする方が良いのではないでしょうか。何か食事係なぞをやって良いことがあるのですか?」
と聞くと、老いた典座は大きな声で笑って、
「日本の和尚さんよ、あなたは修行というもののなんたるかが良くわかっていないようだ。そして、本当の文字の意味もわかっていない。」
といわれたそうです。道元禅師は自分を恥じて、老いた典座に「では本当の修行とは何なのですか」と訪ねたましたが、典座和尚は「いずれまたゆっくり話し合いましょう」と言い残して、急いで寺に帰ってしまったのでした。
その後、道元禅師は船を降り、天童山景徳寺に籍を置き、景徳寺の住職である無際了派(むさいりょうは)禅師の元で本格的に修行をはじめました。
天童山景徳寺は阿育王寺の近くにありますが、ある日、かつて船の中で出会った老いた典座和尚が故郷に帰る途中に、天童山の道元禅師を訪ねてやってきました。
道元禅師は、あのとき理解できなかった本当の文字、本当の修行ということについてあらためて質問しました。
すると、老いた典座は「本当の文字とは「一二三四五」、本当の修行とは「偏界曾て蔵さず」(へんかいかつてかくさず)と教えてくださいました。
すなわち、真実に道を求める仏道者にとっては、目に触れ耳に聞こえるもの全てが、仏道の道しるべである生きた文字であり、この世の全てのものが、隠すところ無く仏道の真理を語っているという意味です。
この言葉を聞いて、道元禅師は典座の修行は坐禅や読経などの修行に比べて価値が低い、と考えていた自分の誤りに気づいたのです。
また別の日、道元禅師が天童山での修行中、夏の暑い日差しの中で用(ゆう)という典座和尚が仏殿(ぶつでん・仏像を奉った建物)の前で海藻を干していました。
太陽が強く照りつけ、老いた用典座の腰は大きく曲がり、汗を流しながら大変そうに干している姿を見かねた道元禅師は
「あなたはもうお年なのだから、部下や雇い人にさせたらどうですか」と声をかけると、用典座は
「他は是我にあらず。」(他人がしたことは私がしたことにはならない)
と答えました。禅師様は続けて
「おっしゃるとおりです。では、せめてもっと涼しい時にしたらどうですか。」と聞くと、
「更に何れの時をか待たん。」(いまやらずにいつするというのか)
と答え、これを聞いた道元禅師様は返す言葉もなく、仏道修行に対する大きな示唆を得たとのです。
またある日、道元禅師が僧堂で坐禅をしている時、隣の修行僧がお袈裟を頭の上に載せて、
「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生
(だいさいげだっぷく むそうふくでんえ ひぶにょらいきょう こうどしょしゅじょう)」
(お釈迦様から伝えられてきた真の仏法を、今私は奉じている。この素晴らしい仏の教えを以て、多くの人々の幸せに務めよう)
という言葉を唱えているのを聞き、道元禅師は感激のあまり涙を流しました。
日本にいる時、『阿含経』を読んでいると、お袈裟を頭上に載せる事が書いてはあったけれども、具体的にどう行うのかは全く想像がつかなかったが、まのあ たりにその行為を見て、お袈裟をまとうということの本当の意味を、知識としてではなく、はじめて体認することができたのです。
これらの尊い体験を通じ、机上で経典の解釈をしたり表面的な知識を得たのでは不十分で、仏道というのは実践してこそ意味があることに気づかれたのです。