1294年、禅師27歳の時、義介禅師が本堂にのぼって、中国の南泉普願(なんせんふがん)禅師と趙州(じょうしゅう)禅師との「平常心是道(びょうじょ うしんぜどう)」と呼ばれる禅問答について説法したとき、それを聞いた瑩山禅師様は心の奥底から仏道の真理が理解できたのだそうです。

早速義介禅師の部屋に赴いて「仏法がわかりました」と報告すると、義介禅師は「ではどうわかったのか述べて見よ」と問われました。瑩山禅師は、
「黒漆の崑崙夜裏に奔る」(こくしつのこんろんやりにはしる)
(真っ黒い玉が真っ暗闇の中で走っている)
と述べて無分別で一つになりきった働きを表しましたが、義介禅師は
「今ひとつ別の言葉でいうとどうなる」
と更に問いました。瑩山禅師様は
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」
(さにおうてはさをきっし、はんにおうてははんをきっす)
と述べて、義介禅師はその深い境地を認め、瑩山禅師が徹底大悟されたことを印可証明されました。

翌年には道元禅師から伝わったお袈裟が瑩山禅師に譲られたといいます。
1295年、瑩山禅師は徳島県に迎えられて城満寺を開き、さらに九州に渡って熊本県の大慈寺の住職である寒厳義伊(かんがんぎいん)禅師を訪ね、さらに悟ったあとの修行を積まれました。
1299年には、義介禅師の願いにより大乗寺に戻り、翌年から歴代の祖師達の行状を説いた『伝光録』の提唱をされました。
1302年、瑩山禅師様35歳の時、義介禅師より大乗寺住職の座を譲られ、第2代住職となりました。

このころから瑩山禅師の徳を慕って、多くの弟子たちが集まり、その中には、後に曹洞宗発展に貢献した名峰素哲(めいほうそてつ)禅師や峨山紹碩(がさん じょうせき)禅師達もおられました。     1311年には大乗寺を名峰素哲禅師に任せ、加賀の浄住寺の開山となられました。
翌年には浄住寺を無涯智洪(むがいちこう)和尚に任せ、石川県酒井保の地に洞谷山永光寺(とうこくさんようこうじ)を開かれました。
51歳の時には、母懐観大姉が87歳で生涯を閉じると、禅師様は永光寺の勝連峯(しょうれんぽう)に円通院を建て、母が信仰していた十一面観音像を安置し、女人済度の祈願所としました。


1321年、禅師54歳の時、石川県の諸嶽寺(しょがくじ)の住職であった定賢律師(じょうけんりっし)はある晩観音様の夢を見たといわれます。
「永光寺にいるすぐれた僧がやがてこの地に来られるだろうから、その方に寺を譲りなさい」
そうしたお言葉を夢で観音様から頂き、そのお告げどおり来た瑩山禅師に諸嶽寺を譲ったのです。
瑩山禅師はこの寺を諸嶽山總持寺(しょがくさんそうじじ)と名付けられ、人々の救済につくされました。

禅師の評判は高まり、後醍醐天皇が出した10種の勅問(ちょくもん・仏法についての10の質問のこと)にも丁寧に答えられ、後醍醐天皇より「曹洞宗出世の道場」の綸旨を与えられました。
その後、總持寺から永光寺にいったん戻られ、永光寺に開山堂を建て、五老峰(ごろうほう)と名付けました。五老峰には、道元禅師の師である如浄禅師の語 録、道元禅師の遺骨、懐奘禅師の血経、義介禅師の嗣書(ししょ・仏法を受け継いだ証明の系図)、瑩山禅師自身の嗣書を安置し、曹洞宗の教えを永く後世に伝 えようとされました。

1324年、總持寺十箇条の亀鏡を示され、總持寺は大本山の名にふさわしい坐禅修行の道場として充実したので、禅師は峨山紹碩禅師に總持寺を任せて引退し、永光寺に戻りました。
永光寺ではその年に普光堂(ふこうどう・本堂)が完成し、13年に渡る禅師の尽力でようやく伽藍(がらん・禅寺の建物)が整ったのです。禅師は『瑩山清規(けいざんしんぎ)』を制定し、修行僧の規則や作法を示されました。


こうして多くの人々の救済に力を注いできた禅師ですが、1325年の春に健康を害し、9月29日、ついに弟子たちが見守る中、58歳で亡くなられまし た。後村上天皇は「仏慈禅師」と諡し、後桃園天皇は「弘徳円明国師」、明治天皇は「常済大師」と追諡されました。

總持寺は1898年に火災に遭い、のちに現在の神奈川県横浜市鶴見に移転し、曹洞宗発展の基盤として、おおいに栄えました。
鶴見の總持寺はその地の利を生かし、禅の国際化に向けて世界に開かれた禅苑として重要な役割を果たしています。また、もとの能登の總持寺は現在、能登の祖院と呼ばれています。

以上述べてきたように、曹洞宗ではその教えの基盤を作った道元禅師と、その教えを全国に広める基礎を整えた瑩山禅師のお二人を両祖(りょうそ)としてともに讃仰し、また永平寺と總持寺を両大本山として信仰の中心としています。

 

↑ 道元禅師と大本山永平寺

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