○精進料理の歴史を学ぶ

最近よく目にする、精進料理を簡単に解説したサイトや雑誌などを見ると、ほとんどが
「精進料理とは、仏教の戒律に基づき、肉や魚を使用せずに作られた料理のこと」
というような説明をしています。
もちろん、その説明は間違いではありませんが、こんな短い解説だけですませたのでは誤解が生じる危険性が高いと思います。
精進料理は、経典や法律などで明文化・定義されて生まれたものではなく、長い歴史の中で成立、発展してきた文化的側面が強い事柄です。したがって、それ をひと言で説明しつくすのは非常に難しく、また簡潔に表現した場合には誤解を生じる危険性が高いといえます。

そこで、精進料理をより深く理解するために、仏教発祥の地にさかのぼって、インド→中国→日本の順に、その背景を学んでいきましょう。 

○お釈迦様は菜食にこだわらなかった
 

(断食して坐禅するお釈迦様)

仏教は今から約2500年ほど前のインドで、お釈迦様によって開かれました。
王の息子として何不自由なく暮らしていたお釈迦様ですが、29歳の時、人はなぜ生まれ、老い、病み、そして死んでいくのだろうかという問題を解決するため に全てを捨てて出家し、厳しい修行生活に入りました。6年間に渡る断食などの苦行を重ねた結果、お釈迦様の体は骨と皮だけになりました。しかし苦行はいた ずらに体を痛めつけるだけで、それによって心の平安を得ることはできませんでした。
そこでお釈迦様はまず河で身を清め、村の娘スジャータから乳粥をもらい、体力を回復させました。肉体的に無理がないおだやかな状態を保ち、菩提樹のもとで禅定に入ったお釈迦様は、悪魔の誘惑や雑念にうち勝ち、8日目の朝にとうとう悟りを得たのです。

そしてお釈迦様は、王子として望めば何でも手に入る享楽的生活も、またその対極である断食苦行も否定し、そのどちらにもかたよらない自由な立場である「中道(ちゅうどう)」こそが正しい道であると説かれました。
したがって、当然食事内容もそうした考え方に基づき定められました。
驚くかもしれませんが、実はお釈迦様は肉も魚も食べていたのです。
仏教発祥以前のインドでは、すでに一部の宗教で「菜食主義(ベジタリアン)」が実践されており、一般民衆の間には「生臭もの」を避ける出家者を尊ぶ風潮も生まれていました。
そんな中、あえてお釈迦様は中道の立場から厳格な菜食主義を説かず、場合によっては肉や魚を口にすることを許していたことは注目すべき点だと思います。
お釈迦様は、『スッタニパータ』というお経で、「生き物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、だますこと、他人の妻に親近すること、・・・こ れがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。」と説いています。肉魚を食べるかどうかということにこだわるよりも、非倫理的な行為を避け、 正しい道を歩むことの方がはるかに重要であると考えたのです。

 ○お釈迦様の食事観

肉や魚が許されているといっても、好んで食べていたわけではありません。
慈悲心に基づく「不殺生」のおしえにより、僧侶自らが漁や狩りをして肉や魚を獲ることはありませんでした。また、ものへの執着や所有欲を絶つために、一切の生産行為や労働行為は行いませんでしたから、食事は托鉢をして、信者たちから頂いた物を食べていました。
つまり托鉢でいただいたものを、よりごのみせずありがたく食べるという自然な食事だったのです。考えてみればそれは当然かもしれません。托鉢により、信者から尊い財施(ものでお布施を受けること)を受け取っているのに、やれ魚はダメだとか肉は受け付けませんとか好き嫌いを言っていたら誰も施してくれなく なるでしょう。

だからといって、もらったものであれば何を食べても良いというわけではありません。熱心な信者が「お、ありがたいお坊さんが托鉢に来たぞ、じゃあここは 一つ奮発して家畜のニワトリを布施するか」と僧侶のためにニワトリを絞めてくれたらどうでしょう。そのニワトリは僧侶のために命を落とすことになりますから殺生につながります。そこで、その動物が殺されるところを見た肉、自分のためにその動物が殺されたと聞いた肉、その疑いのある肉(見聞疑(けんもんぎ)の三 肉)を食することは禁じられていました。

ただ実際には托鉢で肉類が布施されることはまれで、記録によると主に穀類、豆類、木の実、果物などを食べることがほとんどだったようです。
『中部経典』というお経にお釈迦様の食事観が端的に示されています。
「私たちは正しく観察して食事を摂りましょう。戯れ、荘厳、装飾のためではなく、ただこの体を維持・存続させるために、飢餓を去らせるために、仏道修行を助けるために、食事を摂るのである。このようにすれば、無罪・安楽にして正しい生活を存続することができるでしょう」
すなわち、欲望のままに食べるのでもなく、また食の内容を過度に選別するのでもなく、おだやかに日々の糧を得る正しい食を求めたのです。

なお、当初は皆黙々と真理を求めて修行に励んでいたため、必要最低限の原則だけで充分でしたが、教団が大きくなると、お釈迦様の教えの本質を理解しない不心得者も現れるようになりました。やむなく新たな決まりが増えていき、食事に関する細則も次第に増えていきました。
例えば、托鉢はその日の午前中に行い、いただいた食べ物はその日の正午までに食べ、持ち越してはいけないという決まりがありました。保存食を持ち越すよ うになると、財産の所有につながり、新たな煩悩を生むからです。余談ですが、お釈迦様の死後100年ほど経過すると、「塩を翌日に持ち越してもよいのでは」「午後も食事を認めるべきだ」と戒律の緩和を主張する弟子が出てきて、教団が根本分裂する一因になったとさえ言われています。(恐るべし食べ物への執着)

このように、お釈迦さまたちは、中道の教えに基づいて、いただいた物を選り好みやこだわりなく自然に食べていました。
料理技術の面でいうと、いただいたものに多少手を加えたり、煮炊きすることはあっても、それはあくまで最小限のもので、僧が自ら積極的に調理をすることは少なく、お釈迦様の時代にはいわゆるわが国でいう「精進料理」という概念は生まれませんでした。
その後の時代のインドや、お釈迦様の教えを厳密に伝えたタイやスリランカなどの南方仏教国においても、僧が労働をすることはなく、精進料理は発展しませんでした。

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