興聖寺の道場が大きくなると、道元禅師の台頭を良く思わない旧勢力からの圧力がかかるようになり、また師である如浄禅師から帰国の際に言われた
「国王大臣に近づくことなく、ただ深山幽谷に居して、一箇半箇(いっこはんこ)を接得し、吾が宗をして断絶せしむることなかれ」
(世俗の権力に近づかず、深い山の中で、少ない人数でも良いから本当の弟子を育て、真実の仏の教えを絶やさないようにしなさい)
という言葉を守り、当時道元禅師の教えに心酔していた波多野義重(はたのよししげ)公の薦めで1243年、禅師43歳の時に越前(現在の福井県)に弟子たちと共に移りました。

はじめに吉峰寺(きっぽうじ)を建てて越前の地に住した道元禅師は、修行のためにより良い地を求めて翌年別の地に傘松峰大仏寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立しました。これがのちの永平寺です。
そして1246年6月15日、禅師様47歳のときに大仏寺は永平寺と改名され、吉祥山永平寺(きちじょうさんえいへいじ)と呼ばれるようになり今日に至っています。

永平寺時代には、修行僧を指導する知事の心得を示した『知事清規(ちじしんぎ)』、僧堂での食事作法の詳細を示した『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』、雲水の日常の生活の規則を定めた『衆寮清規(しゅりょうしんぎ)』などが著されました。


 

禅師は永平寺にて真実の仏法を受け継ぐ後継者の育成に力を注がれました。
1247年、48歳の時には、篤信者である波多野義重公の招きで鎌倉に赴き、執権北条時頼(ほうじょうときより)公をはじめ多くの民衆を教化しました。
道元禅師は権力に近づく事になるまいかと躊躇しましたが、北条時頼公は兄の突然の死により21歳の若さにして執権という重職に就いた身であり、権力争いと謀略に疲れ果てた時頼公を救いたいという大慈大悲心から、鎌倉行きを決めたのです。

時頼公が「仏法の心を歌で詠んでください」と言ったところ、道元禅師は

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

という、「本来の面目」と題されている有名な句を詠われました。
時頼公は道元禅師の教えを深く信じ、」戒律も授かり、「道宗(どうしゅう)」という法名まで得ました。
時頼公は道元禅師のために、京都の建仁寺と対になるような立派な禅寺を鎌倉に寄進し、道元禅師を開祖として迎えたい、と申し出ましたが、禅師様は丁重にその申し出を断り、鎌倉を発って永平寺に戻られました。

しかし時頼公はどうしても道元禅師をあきらめきれず、広大な土地を寄進する代わりに鎌倉にも法を説きに来て欲しい、という内容の『寄進状』を用意し、鎌倉に残っていた道元禅師の弟子である玄明(げんみょう)和尚に持たせました。

玄明和尚は永平寺に到着すると、喜びのあまり、大きな声で「鎌倉執権北条時頼さまからの寄進だぞ」と見せびらかしながら道元禅師の部屋に行き寄進状を呈しました。
道元禅師の顔色は一変して、
「私が鎌倉を去って永平寺に戻った理由がわからぬか。利欲に走っては仏法はない。この清らかな道場を汚したお前を許すわけにはいかぬ」と、玄明和尚を破門にしたと伝えられています。道元禅師の清廉さと厳格さがよくわかる伝承だと私は思います。

道元禅師は、玄明和尚一人を責めたのではなく、永平寺の修行僧たちに、名誉や地位を求める欲の心が起きるのを恐れたのです。名誉や地位を求める欲によって真の仏法がゆがみ、すさんでいく事を心配されたのです。
なお、明治35年、道元禅師の650回大遠忌(だいおんき)法要において、法要のために全国から参集していた僧侶達が発願して、当時の永平寺住職である森田悟由(もりたごゆう)禅師に玄明和尚の恩赦を願い出ました。
森田悟由禅師は道元禅師の御尊像と御位牌の前で玄明和尚に代わって正式な懺謝(さんじゃ・自分の非を詫びて拝礼・懺悔する儀式)を行い、650年ぶりに破門追放が赦免されました。
今では道元禅師の位牌が奉られた承陽殿(じょうようでん)の下段右側に『玄明首座』という位牌が安置され、裏面にはその由来が刻まれています。

1250年には、後嵯峨上皇より、道元禅師に最高の法衣『紫衣』と、『仏法禅師』の号が下賜されることになりました。しかし道元禅師は如浄禅師の教えを守り、固くご辞退されました。
しかし上皇はあきらめずに三度も使者を出しました。道元禅師は、これ以上断って礼を失してはのちのちの仏法興隆の支障になるやもしれない、とのお考えか らついにこれを受けましたが、一生涯、この紫衣を身につけず、また仏法禅師の号を用いることはありませんでした。


こうして自分の地位に安住せず、厳しい真実の仏法を保ち、多くの修行僧と民衆を教化した道元禅師ですが、1252年、53歳の夏ごろから健康がおもわしくなくなりました。
やむなく翌年には『正法眼蔵八大人覚(しょうぼうげんぞうはちだいにんがく)』を示されて、7月14日永平寺を懐奘禅師にゆずり、病気治療のため京都へ出発されました。

道元禅師は京都の俗弟子、覚念(かくねん)の屋敷に逗留して病の床に伏していましたが、ある日立ち上がって部屋の中を歩き、部屋の柱に筆で
「行くところ、立つところ、全てが道場である。いつでも、どこでも、何をしていても、その場その場を修行道場と思って励むがよい。多くの祖師達も皆そのようにして悟りを得たのである(意訳)」
と書き残されたのでした。

治療のかいもむなしく、道元禅師は1253年9月、54歳で入寂されました。
遺骨は弟子の懐奘禅師によって永平寺に持ち帰られ、承陽殿に安置されています。

1854年、孝明天皇は道元禅師の遺徳をたたえて『仏性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)』という諡名(おくりな)を頂き、また明治12年、明治天皇 は『承陽大師(じょうようだいし)』という大師号を贈られました。そのため高祖承陽大師と仰がれています。

 

↑ 道元禅師と大本山永平寺

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