瑩山禅師は、鎌倉時代の1268年11月21日、福井県武生市帆山町に生まれました。
道元禅師が54歳で亡くなられてから15年後のことです。
瑩山禅師の母、懐観大姉(えかんだいし)はなかなか子供を授からず、十一面観音像を日々礼拝し、一日も欠かさずに『観世音菩薩普門品』を読まれ、何とか 子供が授かるようにと祈念しておりました。そのかいあってか、母37歳の時に願いかなって瑩山禅師をお産みになりました。

禅師は幼名を行生(ぎょうしょう)といって、信仰深い母の元で慈愛に満ちて育ちました。
ある日禅師は母に「観音様はどこに住んで、どのような修行や功徳を積まれて、どのように人々から尊敬されているのでしょうか。」と問うと、母は「観音様 は海のように深い慈悲心をもって、いつどこにでも現れて人々の苦しみを救ってくださるのです。だから私たちはその大慈悲心にすがって祈るのです。」と答え たといいます。
信仰厚き母の姿は、幼き日の瑩山禅師の心に深く刻まれたのです。

禅師は8歳の時、父母に出家を願い出ましたが許されず、絶食をしてその決意の固さを示し、ついに許されて永平寺にて出家し、13歳の時に永平寺第2代住職の懐奘禅師について得度を受け、正式に僧侶となり、名を紹瑾(じょうきん)と改名しました。
その真剣な修行ぶりは、懐奘禅師に「私はもう年だから、そなたが大成して仏法を盛んにする姿を見ることができないのが残念だ」と言わせる程目を見張るものだったといわれています。
懐奘禅師が83歳で亡くなった後も、永平寺三世となった義介禅師のもとで、ひたすら坐禅修行に励まれました。
18歳の時、義介禅師の許しを得て全国行脚の旅に出ました。
はじめに、越前大野の宝慶寺(ほうきょうじ)に、中国から道元禅師を慕って帰化していた寂円(じゃくえん)禅師を訪ね、その下で修行を積みました。その 後、京都に上って万寿寺の宝覚禅師や東福寺の東山湛照(とうざんたんしょう)禅師や白雲慧暁(はくうんえぎょう)禅師を訪ね、また比叡山にも赴いて天台の 教義も学びました。
さらには、和歌山県まで下って臨済の心地覚心(しんちかくしん)禅師を訪ねました。その後、再び宝慶寺を経て永平寺に戻られました。


 

その後、三代相論の末、義介禅師が石川県の大乗寺に移られることになると、瑩山禅師も付き従ってともに大乗寺に移り、新たな地で再び厳しい修行に打ち込まれました。

ある日、大乗寺にて、『法華経法師功徳品(ほけきょうほっしくどくほん)』の中の「父母所生の眼をもって悉く三千界を見ん」という文句にあたって仏法の核心に触れ、義介禅師の部屋にのぼって大悟したことを報告しました。
義介禅師は、禅師の修行の成果に一定の評価を与えながらも、さらに修行を深めるようにと励まされました。

 

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