その後、景徳寺の住職である無際了派禅師から、悟りを得た証である印可証明を授けるという機会が何度かありましたが、道元禅師はまだまだ自分の修行はこれからであると辞退されました。
25歳の時、天童山をいったん下山して中国各地の修行寺を渡り歩き、比叡山以来の疑問を解こうとされましたが、各地の禅僧たちからも心から納得のいく答えを得ることはできず、また心から尊敬できる師を見つけることはできませんでした。
そのため道元禅師は落胆の中いったん帰国を決意しましたが、かつて修行していた天童山では、無際了派禅師が亡くなり、新しく長翁如浄(ちょうおうにょじょう)禅師が住職になったということを聞いた道元禅師は帰国を取りやめて如浄禅師のもと、再び天童山にて修行を積むことにしました。
1225年、道元禅師は26歳のとき、はじめて如浄禅師との対面を果たしました。
のちに「まのあたり先師をみる、これ人にあふなり」と書かれたその時の様子から、ようやく真の師匠に会えたという道元禅師の深い喜びが伝わります。
如浄禅師は、世俗の権力を徹底的に遠ざけ、世俗的な名誉を求めず真の坐禅修行を説く高潔な禅者でした。道元禅師はそれ以後、疑問や質問の全てを如浄禅師 に投げかけ、また如浄禅師も道元禅師の道心の深さに打たれて、親しく教えを説き明かしてくださいました。
正師を得て充実した修行の日々を送っていた道元禅師ですが、この間、一緒に渡航した明全和尚が志半ばで不慮の死を遂げてしまいました。道元禅師はその深い悲しみを乗り越え、明全和尚の分までますます修行に励むのでした。
ある日、道元禅師がいつものように早朝の坐禅をしていた時のことです。
師である如浄禅師は坐禅中に居眠りをしていたある僧を厳しくしかり、「坐禅は常に身心脱落でなくてはいけないのに、このように眠りこけてどうするというのだ!」と一喝されました。
この言葉を聞いた道元禅師は身も心も全てのとらわれから解放され、行住坐臥全ての行いがそのまま仏の姿の表れであるということを深く悟られたのです。
道元禅師は如浄禅師様の部屋に参じて焼香礼拝され、如浄禅師から印可証明(悟りを得て、歴代の仏祖の教えを余すことなく受け継いだという証明)を受けたのです。
1227年、28歳の道元禅師は、宋での5年に渡る修行を終えて帰国されました。
そのころ、中国へ渡った僧侶達は、おみやげとして珍しい経典や仏像などを持ち帰ることが通例となっていましたが、道元禅師は「当下(とうげ)に眼横鼻直 (がんのうびちょく)なることを認得して空手(くうしゅ)にて郷(きょう)に還(かえ)る」と述べて、目は横に、鼻はまっすぐ縦にあるがごとくに、このま まの姿が真実の仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである、よって仏像や経典など持ち帰らなくとももっと大事な仏法の神髄を持ち帰った、とあえておっ しゃったのです。
その後禅師は三年程京都の建仁寺におられました。ここで、坐禅の作法とその重要性をわかりやすく万人に説いた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著述されました。
やがて1230年には深草の安養院に移られて、三年程過ごされました。
この時期、『正法眼蔵・弁道話(しょうぼうげんぞう・べんどうわ)』を著し、お釈迦様以来伝えられた仏法の基本は坐禅であり、さとりを得るという目的を 持っての坐禅ではなく、坐禅そのものが悟りの姿であるという『修証一如(しゅしょういちにょ)』の教えを示されました。
1223年、禅師34歳の時、深草の観音導利院を最初の道場として開き、僧堂(そうどう・雲水が坐禅や食事、睡眠などをする建物)や法堂(はっとう・住職が説法をする建物)などを建設しました。
そのころから道元禅師の教えを慕って訪れるものも増え、のちに永平寺の二代住職となる懐奘(えじょう)禅師も弟子となり、1235年には観音導利院は興聖寺(こうしょうじ)と改名されました。
この10年間の間に、『正法眼蔵』95巻のうち48巻以上が著され、他にも『学道用心集』『典座教訓』等が著されました。