さて、時代は遷り、インドで生まれた仏教はやがて中国に伝来しました。
仏教が言葉も民族も超えて中国に根付いたのは、仏教の普遍性を物語っています。とはいえインドの仏教が丸ごとそのまま中国で受け入れられたわけ ではありません。儒教など中国固有の思想や、独特の生活文化の影響を受け、インドにはなかった多くの宗派が生まれました。

○禅宗の発展

中でも、インドの達磨大師が中国に伝えた「禅宗」は、坐禅修行を中心にして真実の自己に目覚め、正しく生きることをその根本とする、実践的な宗旨を説きまし た。お釈迦様も坐禅によって悟りを得たのですが、それまで「禅宗」という言葉はなく、中国においてはじめて、坐禅を根本とする禅宗という宗派がおきたのです。

達磨大師

そのころ、中国ではインドから大量に伝わった経典を読解し、中国語に翻訳する作業が盛んで、ともすれば教典の議論や勉強にかたよった哲学的内容を重視する風潮がありました。
もともとお釈迦様は「いかにこの世を良く生きるか」という一般民衆にもわかりやすい教えを説かれましたが、時代を経て難解になってしまった仏教は、一部の知識階級だけのものとなり、極論すれば庶民には理解不能な遠い存在になってしまったのです。
そんな中、お釈迦様の教えに回帰し、実際的な修行に重点をおいた禅宗は、まさに時代のニーズにマッチしていたといえます。またたく間に修行僧が増え、多くの道場が建立されることになりました。

 ○禅宗と「作務」

インドなどの国では、出家修行者に対して一般民衆が食事を布施するという行為が伝統的習慣として日常に根付いており、今でも南方仏教国では僧侶の托鉢が日々行われています。
しかし中国にはそれまではそうした習慣がなかったため、出家者が托鉢だけで日々の糧を得るのには無理がありました。そのため、中国では皇帝や貴族たちの有力者の援助や国の公的資金によって、寺院が成り立っていました。
そんな中禅宗では、お釈迦様が行っていた作法である托鉢を重視し、当初は托鉢によって日々の食事を得ようとしました。お釈迦様のような自給自足をめざし たのです。しかし、教団が大きくなってくると、とても信者からいただいた現物だけでは食べていけなくなりました。さらに修行に適した深山幽谷に禅宗寺院が建立されるようになると、周囲に民家がほとんど無いため、やはり托鉢だけでは限界が生じることになりました。

お釈迦様は、所有と蓄財につながることから、労働行為を禁じていました。ましてや僧が田畑を耕せば、土中の虫や田畑を荒らす害虫を殺す結果となり、不殺生の戒律を犯してしまうことになってしまいます。
かといってなにもしなければ中国においては道場が成り立ちません。
ここで禅宗教団は一つの決断を迫られました。つまり乱暴にいえば、お釈迦様の戒律を守って飢えるか、あるいはそれを修正して僧の労働を認めるか。
禅宗が選択したのは後者でした。
仏教の根本に「いまこの世をより良く生きる」という目的がある以上、その選択は当然だったと思います。


だからといって無軌道に労働を行い何でも手に入れたのでは出家の意味がありません。そのため、単なる労働としてではなく、今まで雑用として考えられていた掃除や洗濯、 炊事などの勤労を「作務(さむ)」という重要な修行でとして定義し、世俗的な生産や蓄財を目的とするのではなく、あくまでも仏道の修行として行われるよう になったのです。
唐代の禅の大家として知られる百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師は、僧に「草を斬り木を伐り、地を堀り土を墾(たがや)す、罪の報いの相ありとせん や」と問われ、「かならず罪有りと言うを得ず、またかならず罪無しと言うを得ず。罪有りと罪無しとのことは、当人にあり」と答えたといわれます。

 ○「清規(しんぎ)」の成立と菜食

労働行為を容認したことは、実践を重視する禅宗にとっての大きな決断でした。いくら実践といっても、こうした背景を理解せずにただ漫然と働いたり、不純 な動機で労働してもそれは修行になりません。百丈禅師が、それは本人の心がけ次第だ、と答えた通り、ともすれば単なる作業、または戒律違反行為になる危険 性を意識しながら、自己の尊い修行として清らかに作務を行うことが必要とされるのです。
そこで禅宗では今まで以上に、修行にあたっての心構えやいましめを重視し、「清規(しんぎ)」といわれる教団内の独自規則を定めるようになりました。
(道元禅師の『典座教訓』も清規の一つです)

前述の百丈禅師は、『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』を定め、睡眠、食事、清掃などあらゆる行為が仏行として尊い意味を持つとあらためて規定されました。
百丈禅師自身、修行僧と共に畑で農作業をしたり、掃除などを直接指導したり、修行僧と共に日々実践を行っていました。
ある日、高齢で地位もある百丈禅師が畑仕事に出かけようとしているのを見た小僧が、禅師様に休んでほしくて、良心から禅師様のクワを隠したところ、百丈禅師は「一日作(な)さざれば一日食らわず」と言って、その日は大事な修行である畑仕事をしなかったので私は食事を頂く資格がないとおっしゃった故事は有 名です。

また、インドでは「一日二食」という戒律が守られ、いわゆる朝食と昼食だけを食べ、正午以降には食事を摂ってはいけないとされていました。しかし中国は もともと一日三食の風習があり、また中国の寺院は寒さが厳しい山中に建立されることが多く、気候的にも温暖なインドと同じ栄養価では健康が維持できなくな りました。当初は温めた石をお腹に抱えて暖を取り、飢えに耐えていましたが、特に禅宗では労働を行わなかったインドとは決定的に違い、体を動かしてきつい 作務を行うようになったため、その方法では限界が生じました。そこで次第に中国の寺では体を維持するために一日三食を摂るようになったのです。

これらと並行して、中国仏教界では僧が肉や魚を食べないいわゆる菜食主義が成立し、現在の精進料理の原型が発生したといわれます。
初期の中国禅宗で重んじられた『楞伽経(りょうがきょう)』(五世紀頃)の「禁肉食品(きんにくじきほん)」には、「酒と肉とネギとを食い、かつ飲むべ きではない」「悪臭は聖ならざる人にしたがい、悪名をまねく。肉は食鬼の食べ物であり、食うべきものにあらず」「肉を食うところに過罪があり、食わないと ころに功徳がある」「一切衆生が親族で、眷属であるという思いをもち、一切衆生を一子の如く思うことを修習するために、慈悲を自体とする菩薩にとって、一 切の肉は食うべきものではない」とあります。
また、戒律について説かれた『梵網経(ぼんもうきょう)』(五世紀頃)にも、「禁肉食戒」という戒律がみられます。 

○精進料理のはじまり

これは私見ですが、やむをえず戒律の解釈を変えて労働と生産を認め、また一日三食を許した反面、どこかで自らを厳しく制する必要があったのではないかと 思われます。畑を耕すのが許されるなら、では家畜を育て肉を食べても良いのか、魚を養殖して焼いても良いのか、おやつは食べて良いのか、と無制限になって しまってはもはや修行僧とはいえません。教団の食と健康を確保するために戒律を修正解釈した以上、同じ食に関する制限が厳しくなったのも当然だといえま す。
美食や満腹を求めて戒律を都合良く解釈したのでは、出家修行の意味がありません。あくまで健康を維持するための最低限必要な方向修正のみが必要とされたため、それ以上の不必要な暴走を阻止するための菜食主義化だったのであろうと私は推測いたします。


また、健康を維持するためであれば野菜中心の食事で充分であり、肉や魚、ニラやネギなどを制限無く摂取するようになっては、いわゆる「精が付きすぎる」ために無用な煩悩が生まれ、修行上の問題が発生するおそれがあるのです。

ちなみに、中国では古くから「医食同源」といって、病気を治すことも、日常の食事も、共に命を養い健康を保つという意味で源は同じだと考えられていまし た。そのため食物の効用についてもかなり高度な知識が蓄積され、野菜の栄養を利用した料理が広く食べられており、野菜だけを用いた精進料理が定着する下地 があったともいわれます。

以上の解説をまとめると、
1 禅宗では今まで禁じられていた労働を作務として行うようになったため、
調理も尊い修行とされた。
→僧侶自身による調理の開始

2 清規による食に関する規制強化
→野菜、果実、穀類、海藻などを中心とする食材制限

中国に伝わった仏教が発展する過程で、特に上記の二点を要因として、いわゆる現在の精進料理の原点が形成されたといえるでしょう。

 3 日本仏教と精進料理の発展 →

 




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