豊かな時代となり飢えの心配は確かに減りました。
しかし食糧自給率問題、食品廃棄問題、食品偽装問題、農薬汚染問題、食品の安全問題、家庭環境の変化による食文化の継承断絶と個人化の問題等々、現在のわが国は食をめぐる多くの重要な問題を抱えています。
大本山永平寺の台所には、道元禅師が開創して以来、八百年近く受け継いできた数々の食に対する教えが生きています。こうした食に関わる問題を先延ばしにせず、真正面から向かい合って真剣に解決すべき時ではないでしょうか。
和食が世界遺産となった今、まずはわが国の伝統食文化、中でも特にお寺の精進料理から、私達が現代で活かすべき先人の智慧を学んでみませんか。本物の「お寺の食育」に触れる入口へ進んで頂きたいと思っております。
この章では「精進料理の心」について書き記していきます。
「料理の心」という言葉はよく聞きますが、では心がこもった料理とそうでない料理は何がどう違うのでしょう?
それほど丁寧に作った料理でもないのに意外と喜ばれたり、逆に自分としては頑張って精一杯作ったはずなのに思いのほか不評で、食べ残されてしまったこともあるでしょう。
心をこめたからといって、必ずしも他人の評価が高くなるわけではありません。料理の心と、味やできあがりはまた別の話なので、まずは料理の技術や味とはちょっと分けて考えた方が理解が早いでしょう。
また「心」というのは見えないためわかりにくく、他人が表現してもとらえにくいものです。そこでまずは目に見える「形」から学んでみることが理解の第一歩となるでしょう。
曹洞宗では「威儀即仏法 作法是宗旨(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)」といいます。これは文字通り、日頃の身じたくや立ち居振るまい、作法がそのまま仏の教えである、という意味です。
「正しい形や正しい行いは、正しい心に通じる」と言い換えることができると思います。
たとえば茶道、華道、空手、柔道、剣道などでもそうですが、はじめは繰り返し基本の動作を稽古していく中で、形の修練を通して次第に心も練られていきます。精進料理でも同様で、正しい調理法、正しい方法で日々料理していけば、自然と正しい心も養われていくのです。
ちょっとだけ話が逸れますが、少しだけ違う点があります。茶道や武道では初心者とベテランでは実力に大きな差がありますが、仏道では仏の行いを行じる時には、達成度や理解の度合いに関わらず、つまり新入りも古参の老師も、その形に差はあれど、その功徳に差は無く、誰でも平等にありがたみがある、と説きます。ですからもしうまくいかなくても、あるいは見本のようにうまくいかなくても、気にすることはありません。仏道を求めて、精一杯頑張ろうと思った時点で充分ありがたいのですから。
「精進料理の心」をとらえるためには、まずは「正しい精進料理」戸は何なのかを掴まなければなりません。「正しい精進料理」を学ぶために、道元禅師が示された『典座教訓』(てんぞきょうくん)『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)をひもといていきましょう。