道元禅師の弟子は多くおられましたが、中でも、のちに永平寺の2代目住職となった孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師、第3代徹通義介(てっつうぎかい)禅 師、第4代義演(ぎえん)禅師、熊本県の大慈寺を開いた寒巖義尹(かんがんぎいん)禅師、福井県大野市の宝慶寺を開いた寂円(じゃくえん)禅師、京都の永 興寺を開いた詮慧(せんね)禅師、經豪(きょうごう)禅師などが特に重要な役割を果たされました。
○孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師
懐奘禅師は京都の生まれで、道元禅師よりも2歳年上でした。比叡山で出家得度された後、浄土宗に学ばれましたが、納得がいかず、大和の多武峯(とうのみね)を拠点としていた禅宗の一派、日本達摩宗で修行を積まれました。
その後、中国から帰国された道元禅師と建仁寺で出会い、その教えのすばらしさと人格の清廉さに惹かれ、5年後、1234年、懐奘禅師37歳の時に正式に弟子入りされました。以後、全ての私心を捨てて道元禅師に随身され、孝順の誠を捧げました。
道元禅師が亡くなられた後はその遺骨を病気療養されていた京都から永平寺に持ち帰り、葬儀を行って、永平寺の第二世住職となられました。懐奘禅師はの道 元禅師の死後も、遺骨が奉安された承陽殿の脇に孤雲閣を建てて、まるで生きておられるかのように随侍され、道元禅師の教えを受け継ぎました。朝早くの起床 の御挨拶からはじまり、常に承陽殿を離れず道元禅師の御真牌を守られ、毎夜遅くまで承陽殿の点検を怠らなかったといわれます。そのため、現在も永平寺では 夜の戸締まりの際、承陽殿の正面扉だけは今なお2代懐奘禅師の点検のために、少し開けておくことになっています。
また、道元禅師の日常の言葉を記した『正法眼蔵随聞記』を残されたのをはじめとして、百数十巻に渡る道元禅師の著述を整理、書写し、その他にも『永平広録』等を編集され、道元禅師の教えを後世に伝える重要な役割を果たされました。
○徹通義介(てっつうぎかい)禅師
義介禅師は日本達磨宗で得度され、比叡山にて受戒、後に興聖寺にて道元禅師の門下に参じました。道元禅師の亡き 後は懐奘禅師にしたがい、やがてその法を継いで永平寺の第三世となりました。その間、宋に渡って4年間各地の名刹で修行遍歴を積み、帰国後は永平寺の伽藍 を整備したり、各種の儀式の軌範を整備したりして教団の維持・運営に尽力されました。
義介禅師は、道元禅師を越前に招いた波多野氏(永平寺の開基家)の助力を得て、出家者のためだけの永平寺ではなく、世俗への布教と調和をはかろうとして伽藍の整備や新しい儀式の制定を行ったといわれます。
そのため、道元禅師の教えを固く守り、出家主義に専念しようとする保守派から大反対を受け、永平寺内で論争がおこりました。この論争は、二世懐奘禅師と 三世義介禅師が永平寺に入る前、日本達磨宗に属していたことから、僧たちによる派閥争いに発展し、一時は引退していた二世が仲裁のために再び住持に戻るほ どに長期化しました。これを『三代相論』と呼びます。
波多野氏の仲裁の甲斐無く、義介禅師は75歳の時に永平寺を辞し、賛成派を従えて金沢市にあった当時真言宗の寺院であった大乗寺に入り、禅宗の寺院とされ、開山となられました。
くしくも、その時義介禅師とともに大乗寺に移った弟子たちの中から瑩山禅師が輩出し、道元禅師の法統は世に広まることとなったのです。
○義演(ぎえん)禅師・寂円(じゃくえん)禅師・義雲(ぎうん)禅師
紛争ののち、保守派の信頼を得た義演禅師が永平寺の四世となりました。しかし紛争の余波により寺内の調整がうまくいかず、また波多野氏からの援助も断た れた永平寺は経済的にも行き詰まり、四世義演禅師はやむなく永平寺を去ることとなり、永平寺は一時存亡の危機に瀕しました。
そのころ福井県大野の宝慶寺(ほうきょうじ)では、道元禅師の教えを慕って中国から帰化した寂円禅師が特に厳しい門風を起こしておりましたが、その宝慶 寺の第二世である義雲禅師が永平寺第五世として住職の任に就き、伽藍の整備等に力を注ぎ、一旦傾いた永平寺を再び再興されました。永平寺山門の前にそびえ 立つ「五代杉」も、義雲禅師の頃に植樹されたと言われています。そのため、義雲禅師は「五世中興義雲大和尚(ごせちゅうこうぎうんだいおしょう)」と呼ば れています。
また、義雲禅師の後、永平寺第20世の門鶴禅師まで、寂円禅師の系譜の僧達が永平寺住職となって、永平寺を支えてこられました。
○寒巖義尹(かんがんぎいん)禅師
義尹禅師は、道元禅師のもとで仏法を学んだ後、二度も宋に赴いて修行を積まれました。帰国後、福岡県の聖福寺に一時住し、後に熊本県の如来寺を開きました。さらに大慈寺を開創し、九州地方に曹洞宗の基礎を築かれました。
○詮慧(せんね)和尚・經豪(きょうごう)和尚
このお二人は京都に赴き、永興寺(ようごうじ)を建てて京都の民に道元禅師の教えを広めました。二人が残した『正法眼蔵聞書』と『正法眼蔵御抄』30巻は、正法眼蔵の最古の解釈書として有名です。