出家と修行上の疑問~道元禅師の御生涯と大本山永平寺1

道元禅師は、鎌倉時代の1200年1月26日(旧暦1月2日)、内大臣久我通親(ないだいじんこがみちちか)公を父とし、摂政関白藤原基房公(せっしょうかんぱくふじわらのもとふさ)公の娘を母として、京都でお生まれになられました。
幼名は、智慧第一といわれる文殊(もんじゅ)様にあやかって「文殊丸(もんじゅまる)」といい、幼少の頃から学才を発揮していたといわれます。
ところが、3歳のとき父が亡くなってしまいました。以後、叔父である久我通具(こがみちとも)公に養育されました。
続いて8歳の時には母が亡くなり、立ちのぼる香の煙がスーッと昇っては消えていく様をみて、この世の無常を感じ、仏道を志すようになりました。
のちに当時のことを振り返って「我れはじめてまさに無常によりて聊か(いささか)道心を発し(おこし)」と述べております。それ以後たくさんの仏書を時間を惜しんで読み、9歳の時には難解な『倶舎論(くしゃろん)』を読破したといわれます。

そして1212年、13歳にて出家の決心を固め、比叡山にいる叔父、良観法印を訪ねて仏道への志をうち明けました。叔父の良観法印は文殊丸にもう一度思 いとどまって、国家の職に就くことを勧めましたが、文殊丸の「なぜお釈迦様はお城を捨ててまで真実の道を見極めようとされたのでしょうか」という問いに、 ついに許され、良観法印の手配で横川の般若谷にある千光坊へ入りました。
そのまま世俗の道にいれば、国家権力の中枢に登ることが約束された家柄を捨て、あえて仏道に身を投じられたのです。

(道元禅師得度の地で読経する永平寺の修行僧)


翌1213年、14歳にて、比叡山の座主(ざす)公円僧正(座主は延暦寺の住職のこと)について剃髪得度し、このとき名を「道元」と改名し、とうとう正式に出家されました。
当時は比叡山が国内最高の仏教権威を誇っており、多くの名僧を輩出しましたが、道元禅師もはじめは比叡山にて天台の教学を学ばれました。
道元禅師の大叔父にあたる九条家の慈円僧正はかつて天台座主の位にまで就かれており、公家出身の道元禅師は周りの僧達から、いずれは天台座主につかれる素養の持ち主として期待されるようになったのです。

道元禅師も、周囲から「天台座主の座につけるような名僧になる事こそが亡き母への供養になる」といわれ、日々仏教書の研究に精進し、若くして『一切経』を二度も読破したといわれます。
しかし、当時のいわゆる高僧とは、朝廷から高い位や名誉をもらった僧侶のことでした。インドや中国の名僧達の言動を記録した『高僧伝』を読んだ道元禅師 様は、かつての高僧達はむしろ地位や名誉を捨て去ることを旨とされていた、という事に気づかれたのです。

その上、比叡山で教義を学ぶうちにある疑問にぶつかりました。
それは、「本来本法性・天然自性身」(ほんらいほんぽっしょう・てんねんじしょうしん)という天台教学のことばです。それは要するに、「人は生まれながらにしてすでに清浄で、もともと悟りを得ている」という意味です。
道元禅師は、もともと悟りの境地にあるならば、なぜ人はつらい修行をしなくてはいけないのだろうかという疑問を持ったのです。この疑問を、比叡山の高僧達に質問しましたが、どの僧侶からも、自分が納得できる回答は得られませんでした。


そこで三井寺(みいでら)の公胤僧正(こういんそうじょう)を訪ねると、京都建仁寺(けんにんじ)の栄西禅師(えいさい)のもとに行くと良いとの示唆を 受けました。当時、栄西禅師は宋(中国)から禅宗という新しい教えを持ち帰ってきており、建仁寺にて弟子たちの育成にあたっておりました。
旧仏教勢力からの妨害を避けるため、一応建仁寺は天台宗の末寺というかたちをとってはいるものの、内容は新しい禅宗の教えを広めていたのです。

道元禅師が18歳の時に建仁寺を訪ねると、栄西禅師はすでに亡くなっており、建仁寺では明全(みょうぜん)和尚が栄西禅師のあとを継いでおりました。
道元禅師様は明全和尚のもとで臨済宗の教えを学ばれましたが、疑問を根本的に解決することはできませんでした。
こうして道元禅師様の気持ちは、仏教の本場中国へと移っていったのです。

 

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