はじめに 2~精進料理とは

あまり宗教になじみがない方にしてみたら、仏教といえば仏さまに祈る姿のイメージが強いことでしょう。

お寺にお参りすればご利益を求めて祈りごとを念じますし、亡くなった方には成仏を願って手を合わせます。
祈れば偉大な力を持った仏さまが助けてくれるという一面も仏教にはありますが、わたしどもが信仰する曹洞宗では、自らが努力することを重んじます。
日々の生活の中で、仏の教えにのっとった正しい行いを心がけて精進し、自分の中の仏さまに気付くことを目指します。はじめから仏だよりではなく、自分で精一杯努力すると同時に、謙虚に仏に祈って修行の成就を願うのです。言葉を換えれば、ただ祈っただけでは真の安心は遠く、そこに日々の修行が欠かせません。

春
ではどんな修行をすれば良いのでしょうか。
特別難しいことは何もありません。
永平寺の開祖、道元禅師は朝起きてきちんと歯を磨き顔を洗い、身支度をしっかり調えて部屋をきれいに掃除し、背筋を伸ばして歩き、丁寧な言葉遣いで話し、ご飯を丁寧に作って感謝して食べ、お茶を飲み、周囲に気遣っていさかいを起こすことなく協調して暮らし、お手洗いを汚さずに使って眠る、こうした毎日の当たり前の生活行為の中にこそ修行がある、と示されました。
もちろん坐禅や読経がその根本にあるのですが、こうした内容ならば、出家した僧侶だけでなく、ごく普通に社会生活を営む一般の方でもすぐに実践できると思いませんか。
日常の生活がそのまま仏道修行につながるのが曹洞宗の教えの素晴らしいところなのです。

そうした正しい日々を送る中で、物や命に対する慈悲心が養われ、煩悩が消え去って自らの中の仏が現れてくるのです。

夏

そして道元禅師は修行の初学者に対し、禅寺の調理係の心得を説いた『典座教訓(てんぞきょうくん)』と、食べる者のありかたと作法を示した『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』を著しました。
日常行為の中で、「食」は人が生きていく上で誰もが避けて通れない営みです。だからこそ道元禅師は、料理を作り、それをいただくことを一つの代表的な例として取り上げて説いたのです。料理や食事だけが特別なのではなく、そこに書かれた教えは全ての行為に通用する基本なのです。
ですから精進料理の背後には、禅の修行や仏教の世界が大きく広がっています。食を大切にする仏教の姿勢を学び、是非毎日の生活の中で実践していただきたいのです。

秋

精進料理はおいしくない、という誤解は平安時代からあるそうです。確かに一部の宗派にとっては、粗末でおいしくない料理を少しだけ食べて我慢するのが精進料理、という解釈もあるようです。
しかし『典座教訓』には、調理する者はそれを食べる人を思いやり、季節や状況を考え、調理法や味付けなどを工夫して臨機応変に調理しなさいと説かれています。

同時に、食材への敬意と感謝を忘れることなく調理せよと説かれています。どんな食材にも、尊い命が宿っています。食材を無駄にせず、持ち味を引き立てるように調理すれば、結果的にその食材の命を活かすことになり、同時にそれを食べる者の命までも活かすことにつながるのです。

ですから誤解しないで欲しいのは、これら二つの点、すなわち食べる相手を思いやり、食材の命を活かすように調理した結果、おいしい精進料理ができあがるのです。いたずらに美味を追及しておいしく作るのではありません。この違いがわかるでしょうか。食材の命が輝いている料理は美しく、またおいしいのです。

冬

また『典座教訓』では、繰り返し「自分自身が(調理などを)行うこと」の大切さを説いています。
他人がやったことは自分のためにはなりません。面倒な料理でも、自分でやってこそわかることがあるのです。
料理に限らず、禅の修行はただ頭で理解しただけでは価値がなく、必ずそれを踏まえた上で実践しなくてはいけません。逆に道理がわかっていない状態でいくら実践しても同じく意味がないのです。

さあ、ここまで基本的な姿勢を理解したら、まずは今日の食事を自分で作り、ありがたく合掌して口にしましょう。当ブログは必ずその一助になることでしょう。

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