葬儀司会について思う

 本日檀家さんの葬儀がありました。

当地での葬儀は、ほとんどが昔ながらの自宅葬です。故人が生まれ育った愛着ある我が家で葬儀を行い、最後の別れを惜しむのです。ほとんどの方が、自分が亡くなったときもそうして欲しいと願っています。
 もともと、田舎の旧家は部屋と部屋とを区切るふすまや障子を取り外せば、かなりの広さの大部屋ができます。その広い室内に祭壇を設け、遺体または霊骨を安置して葬儀を行うのです。遺族・親類は家の中にあがって室内で葬儀に参列し、一般会葬者は屋外にて立って参列し、縁側あたりに用意された焼香台で焼香するのです。そして葬儀の進行に関わるほとんどの配役は、近所の方々のお手伝いによって運営するのです。
 
 昔の葬儀は多くの地域でこのような形で行われていたようでうす。現在は都市部ではホールや斎場などの設備が整い、また葬儀社が葬儀に深く関わるようになった関係で、葬儀のあり方もだいぶ変わってきました。それについては今後少しづつ紹介していきたいと思いますが、今日は葬儀の司会についてお話しします。

 葬儀に司会は欠かせません。たとえば、「ただ今より○○家葬儀を開式致します」とか、「それではここで弔辞を賜ります。○○会社社長、○○様、お願い致します」とか、「ここで喪主の○○よりご会葬下さいました皆様に御礼の御挨拶を申し上げます」などなど、円滑な葬儀の進行には必要不可欠な配役です。
 古くには、僧が法要の進行に合わせて直接「弔辞」とか「これより会葬者焼香」というふうに短く指示の言葉を発して、会葬者がそれにしたがうという方法も行われていましたが、昔は身内や村内でのお別れの意味が主だったのに対し、現在は故人や喪主の社会的な立場等が葬儀に関係するようになったため会葬者が非常に多くなり、弔電とか指名焼香とか昔はなかった要素が加わったため、必然的に司会の役割が必要になってきたのです。僧が自分で「葬儀の前にお願い致します。携帯電話の電源は切って下さい・・・」とか「指名焼香です。○○市長、おすすみ下さい」なんて言っていたらサマになりませんから。

 当地の自宅葬では、近所のお手伝いの方の中から適任の方が選ばれて司会をつとめます。葬儀前に、僧と寺の役員さんと司会の方とで進行打ち合わせを行い、寺が用意した司会原稿を元にして司会をするのです。葬儀はその時その時でシュチュエーションが違うため、毎回その時の事情に合わせて細かい点を変更しながら進行できるのが良い点です。
 
 ところが最近わが山間部でも、峠を越えた市中のセレモニーホールで葬儀を行う方が少しづつ増えてきました。ホールで葬儀を行う場合は、ほとんどはプロの司会者が司会をつとめます。
 近所の方が司会をするのに比べて、やはりプロですから発声も滑舌もよく、スムーズな進行ができて会葬者にも好評のようです。
 
 しかし良い面ばかりではありません。時に疑問を感じる場面も少なくないのです。
細かい点をいえばきりがないので省きますが、司会者が全面に出過ぎるのが一番困ります。
 司会者が法要の解説をし始めたり(その上それが間違えていて、曹洞宗なのに極楽浄土とか言い出したり・・)、ムードを出すためなのか不要な前置きを延々と話し出したり。
 あくまで司会者は進行を円滑にするための役割であって、司会者が葬儀を主宰しているのではありません。葬儀の執行者はあくまでも僧侶でなくてはならないのです。
 中にはその点を勘違いしている司会者の方がいて、僧侶が気をつけていないと司会者が主体になってしまう葬儀も少なくありません。
 たとえば、司会者が事前に喪主や葬儀社と打ち合わせて葬儀の流れを組み立ててしまい、悪い言い方をすれば僧侶にそれを押しつける、というケースがあります。正直言って、住職の中にはその方がラクでいいや、全部お任せするからそちらでうまくやって下さい、私は言われたとおりに動きますので、とあえてそれを受け入れる方も多いようです。そのため、司会者側もそれが当たり前になってしまい、時に「いや、その流れはおかしいのでこうして下さい」なんてこっちが言おうものなら「しかしご住職、それですと時間が・・・とか流れが・・・」とか言い出す始末です。
 それがエスカレートすると、「ご住職、本日の葬儀はあいにく時間がございませんでして、お焼香のご案内まで5分で法要を進めていただきたく存じます」と僧が司会者に命じられる驚くべき事態になるのです。言い方は丁寧でも、実際には司会者が葬儀をしきっていて、僧侶は司会者の操り人形になっているのと同じです。

 中でも最もわたしがイヤなのが、読経中に弔電を読みあげるケースです。
都市部の葬儀では、僧侶が退席してから弔辞弔電を行う場合が多いので、そういうトラブルはないのですが、このあたりでは葬儀中に弔辞弔電のコーナーが設けられています。 
 弔電がたくさん来た場合、弔電披露の時に全部読むと長すぎて聞いてる人が飽きてしまうから、という理由で、弔電披露の際は代表を10件ほど読み上げて、あとは読経中に読み上げてよろしいでしょうか?と臆面もなく言い放つ司会者には怒りを通り過ぎてあきれ果ててしまいます。司会者はマイクのボリュームコントロールスイッチを支配していますので、その場合読経はもはやボリューム2くらいに落とされ、司会者の弔電芳名拝読がボリューム7くらいで朗々と流されるわけです。

 ちなみに読経中はたいがい会葬者焼香を行いますので、はっきりいって読経中に弔電披露なぞしても誰も聞いていないのが現実です。もし聞いている人がいても、読経の声と芳名披露の声が混じり合って聞き分けることは困難でしょう。
 そもそも、故人への追善回向としてせっかく読経しているのに、それに重ねて弔電拝読を行うなど、読経本来の意味を取り違えているとしか思えません。読経は焼香のためのBGMではないのです。僧側は、司会者がなにか発声しているときには極力読経や鐘を鳴らすのを避けるように努めているというのに・・。

 ということでわたしは必ず、「弔電がたくさんあっても、全部読み上げたいのなら時間がかかろうが聞いている人が飽きようが、弔電披露の際にご芳名を全部読み上げてください。会葬者に配慮して短時間で済ませたいなら、代表のご芳名だけ数人分読み上げて、他にもたくさん頂戴しておりますがご芳名は省略させていただき、後ほど一括奉呈させていただきます、としてください。」と司会者に言います。
 すると「申し訳ございません、ご住職、もうすでに喪主さまと相談した上で、残りは読経中に読み上げることになっているのですが・・・」なんて言い返されることもあります。どうして読経中に読むことが選択肢に入っているのかが理解不能です。「いやいや、でも読経中に芳名拝読しても誰も聞いていませんよ?」と反論すると、ほとんど「それでも読み上げないとせっかく弔電を下さった方に失礼ですから」となるわけです。失礼になるのであれば読経中ではなく弔電披露の際に読むべきだし、そもそも読経をしている住職には失礼にならんのか?とため息すら出てきます。

 そういうときの司会者の反応を見ていると「なんだこの和尚、へんなところにこだわって。他の和尚はそんな文句言わないのに、イヤなヤツだな~」と内心思っているような反応です。いやいや、こちらもタダの頑固石頭ではないので、今日の葬儀は弔辞が多いのでその分読経時間を調整しなければ、とか式場と火葬場の都合で早めに出棺しなくては、という臨機応変の対応は、必要があれば司会者や葬儀社と協力して調整するのです。しかし、譲れないこともあるのですよ。特に読経中の意味ない司会者のマイクはやめていただきたい。 

 実際、司会者に任せてしまった方が便利で良いのかもしれません。しかし葬儀進行の実権を僧が放棄してしまっては、いずれなんのための葬儀なのかわからなくなってしまいます。あくまで僧侶が葬儀の主体となり、司会者や葬儀社がそれをサポートするというのが本来あるべき姿だと思うのです。そして最も大事なのは、喪主や遺族、会葬者にとって「良いお葬式だった」と感じられる葬儀を行うことなのです。喪主や遺族たちが葬儀に専心できるような進行こそ理想であり、つまらないことに気が向いたり流れがよどんでしまうような進行、会葬者が気を使うような内容では故人や喪主に対して申し訳がありません。
 より良いお葬式を行うため、今日も裏方で司会者と隠れたせめぎ合いに火花を散らす拙僧でした。 

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Posted by 管理主宰者・典座和尚